日本語補習校に入学した子供たち
アメリカに着いた当初から我々家族がお世話になっていた、この地域の日本人コミュニティのぬしのようなマダム、彼女のご主人の本業は研究職でしたが、日本語補習校でも長年教員をされていました。そんな関係もあり、マダムからは子供達を補習校に入れた方がいいわよと熱心に勧めらました。
日本語補習校は定義が色々ありますが、週末に国語と算数を中心とした補習授業を行う学校で、文科省の認可を受けていると日本から校長先生が派遣されます。しかしその他の教員は必ずしも教員免許は必要なく、アメリカ国籍やグリーンカードや労働ビザなど、合法的に働ける資格のある人が一定の研修を経て採用されます。基本的には「帰国後に日本の学校に編入しても困らないよう、同じ指導要領の教科書で勉強しておく」というコンセプトで運営されており、母国の授業の進度に合わせてカリキュラムが組まれています。
ロサンゼルスやサンフランシスコなどの大都会とは異なり、ピッツバーグの補習校は比較的小規模で、一番人数が多かったのは幼稚園の次女のクラスで20名ほど。長男のように中学生にもなると、多くの駐在員家族は帰国してしまっており、2、3人がせいぜいでした。ピッツバーグの郊外にある私立高校を間借りして日曜日に授業を行っていました。
日本語補習校の宿題
週5日ないしは6日分の内容をたった1日で消化することは当然ながら不可能です。授業で扱う範囲は限られており、残りは宿題になります。つまり子供達は、現地校と補習校2つの学校の宿題をこなさなければならず、これが予想以上にハードでした。
最初の頃は私も緊張していたこともあり、寝る間も惜しんで一緒に宿題を見てあげたりしていましたが、自分の宿題もあるし、なんやかやと忙しくなり、次第にほったらかす事が多くなってきたそんなある日のこと。
補習校の前日の土曜日、子供の部屋で次男の担任の先生からの手紙を発見しました。見ると次男が宿題をやってこないので大変困るというお叱りの内容です。え?こんな事を言われるくらいなんもやってないの?そう思ってプリントやノートを見ると、あれもこれもまあ見事に何もやってない。
親の目がないと途端にこうなるのはどういうわけ?ウチの子はどうしてこうなの⁉︎ 一瞬にしてアドレナリンが噴出し、私のヒステリーは最大限に達しました。
もういい!アンタ達に任せておくとロクなことがない!補習校の教科書と宿題持って!全員さっさと車に乗って!
カフェで一週間分の宿題をやる
次男のみならず他の子供達にもとばっちりが行き、私が怒りモードで向かった先は、パネラブレッドというチェーンのカフェでした。到着するなり、各自に10ドル札を渡し、はい、まずこれで好きなもの買ってきて!おつりはもちろん返してよ!買ってきたらここに座って!はい、宿題開く!一週間分全部終わるまでウチに帰らないからね!
こうして我が家では、前日の土曜日に私の監視のもと、補習校の宿題をまとめて行う、それをパネラブレッドでやるというのがルーチンになりました。私自身も自分の宿題に集中できるので、これは我ながら良いアイデアだと悦に入っていました。
しかし今思うと、私は人生をリセットしてアメリカに来たはずなのに、心は日本社会でしか通用しない価値観に支配されていたのだなあと感じます。日本の学校についていけなくなると困る。当時の私にとってこの言葉はキラー・ワードでした。マダムのように純粋に子供の日本語の維持に取り組むという動機をもつには日が浅すぎたのです。そういう危機感は子供の第一言語が完全に英語になり、親が話しかけると英語で答えるぐらいの時間がたたないとおそらく実感できません。むしろどちらかといえば、帰国後受験して偏差値のそこそこ高い学校に入る、そのためのルートを確保する、だから日本の学校と同じ内容を勉強しておかないとまずいという考え方でした。
他人からの評価を気にする自分
もうひとつ、当時の自分は気づいていないか気づかないフリをしていましたが、ここまで子供達に宿題をさせることにこだわったのは、母親として他人から低い評価を受けるのは耐え難いという動機からでした。これが一番大きかったかもしれません。アナタはよくやっている、偉い、すごい、花マルです、100点です、と言われないと自分自身を評価できない。こうした呪縛は、その後帰国して就職してからも何年も何年も続きました。他人の評価を気にするうちは幸せにはなせないと気づくのは、もっとずっと後のことです。
そんなわけで、不要だったかもしれない親心と私自身のエゴに、子供達4人は振り回されていたように思います。
(つづく)