【41】そもそもどうして図書館情報学なんていうマイナーな分野でアメリカに留学したのか、その背景は子供時代にさかのぼる

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なぜMBAではなくMLISか

アメリカの大学院に留学するといえば、普通の人が思い浮かべるのはまずMBA(経営学修士)ではないでしょうか。私は図書館とその周辺の業界にかれこれ30年近く生息しているので、時折感覚が麻痺してしまうのですが、国内外を問わず、一般の人からは、図書館情報学?なにそれ、図書館を学問するの?そんな分野がこの世にあるの?という素朴な疑問をもたれることも珍しくありません。図書館情報学が何をする学問(一応ここでは学問と言い切っておきます)なのか、これについては東大の図書館情報学研究室のウェブサイトに簡潔な説明があるので、こちらを参考にしてください。

私が図書館情報学での留学を選んだのは、さしたる理由はなく、大学で一度やったものであれば、私の英語でもなんとかついていけるからという程度の理由でしかないことは前に書いた通りです。

では、そもそもなぜ図書館情報学を専攻したのか。これは良くも悪くも母の影響です。

子供時代の図書館との関わり

私が子供時代、すなわち1970年代、日本は高度経済成長時代の後期で、母親たちの多くは専業主婦でした。私の母も地方銀行に勤める夫を持つ専業主婦で、一家は福島県内を転々としていました。当時は彼女も30代でしたから、自己実現にもがいていた時期だったと思います。自分の人生、子供を産んで育ててそれで終わりなのか、何か意味あることを成し遂げられないのか、そんなことを一生懸命考えた時期だったでしょう。私自身、ちょうどその年齢でアメリカに行ったわけですから、当時の母の気持ちは想像できます。

70年代の母親たちの文庫活動

当時、こうした母親の一部は、自宅を開放しての子供図書館、いわゆる家庭文庫の運営や、市の図書館を作る運動に携わりました。私の母もその一人だったわけです。彼女たちは教育熱心でしたが、受験教育に熱心な親と思われることを嫌い、「絵本を読み聞かせると字が早く覚えられる」とか「国語の成績が良くなる」といった効用を語る人々とは一線を画していました。そして、大人になってから知りましたが、あの時代、そんなグループが日本の各地に存在していたのです。一部は公共図書館の設立に大きな役割を果たしました(またこのことが「公共図書館イコール母親とその子供たちに本を提供するところ」という誤った理解を広めることにも一役買っていたことは否定できないと思います)。

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さて、母は子供の本を勉強する会にも積極的に参加し、出版されたばかりの児童文学の翻訳本や戦争児童文学や絵本など、様々な子供の本を「研究」していました。我が家ではテレビは禁止ではなかったものの、テレビを見ていると明らかに母の機嫌が悪くなり、放課後の夕方、家でアニメやドラマの再放送をぼーっと見ていると、突然つかつかつかとやって来て「パチッ」とスイッチを消されることも少なくありませんでしたし、学校で流行っていた百恵ちゃんの「赤いシリーズ」はついぞただの一度も見たことがありませんでした(古・・・)。余談ですが、そんな悲しい思い出もあり、私は自分の子供のテレビを一度たりとも制限したことはなかったです。本に限らず様々なソースから情報を得るスキルを身に着けたほうがいいし、それは人に会って話すことかもしれないし、YouTubeかもしれない、(このブログは違いますが)ブログかもしれません。もっというと本だけに情報の価値をおいている公共図書館がまだまだ多数派だとしたら、それらの図書館は早晩時代に取り残されていくのではないでしょうか。

一冊の本との出会い

話がそれました。さて、ある日のこと、母が「あなたに絶対読ませたい本がある」といって一冊の本を渡してくれました。それがベバリー・クリアリーの「がんばれヘンリーくん」(学研)です。以前にも書きましたが、これはアメリカのクリッキタット通りという架空の町に住むヘンリー・ハギンスという少年とその両親、近所に住む隣人が繰り広げる、本当になんでもない日常を生き生きと描いたシリーズ作品です。10歳の私は、最初はしぶしぶ本を広げたものの、見事に母の術中にはまり、様々な主人公に自分を投影しながらシリーズを貪るように読みました。 このシリーズの翻訳者が東京こども図書館の創設者で児童文学作家の松岡享子さんです。本の奥付にかならずプロフィールが出ているので、何度も読むうちにすっかり覚えてしまいました。

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慶應の文学部に決めた

やがて、何年か経ち、高校3年の夏。本格的な進路を決める時期になりました。英語ぐらいしか得意な科目もなく、何をしたいのかも全くわからない私。典型的な高校生でした。平凡な高校生なんてそんなものですが、唯一わかっていたのは東京に行きたいということだけでした。しかしとても親に言い出せる成績ではない。高い学費と下宿代を払ってもらうために説得できる大学はどこだろう。ない知恵を絞って考えていたところ、職員室の進路指導の棚にあった大学案内に見たことのある大学名と学科名を発見。これが自分の人生をある意味決定づけることになったのでした。

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 松岡享子さんのプロフィールにあった「ウェスタンミシガン大学院に留学」「ボルチモア公共図書館に勤務」という当時の自分には雲の上の上の上のような経歴は、社会人になってもどこか頭の片隅に残っていました。韓国人の友人の一言でアメリカ留学を真剣に考え始めた私でしたが、最終的に背中を押してくれたものはたくさんあり、その一つが、この子供の頃に読んだ松岡さんの経歴だったことは間違いありません。

そんな経緯もあり、私はライブラリースクールに入ったら絶対にストーリーテリングの授業だけは取ろうと心に決めていました。そして実際授業を取ってみて、目から鱗の経験をたくさんしました。日本においてはある意味盲信されているストーリーテリングの手法が、実際には数ある手法のひとつにすぎず、世の中には本当に様々な表現方法があるんだということを学んだのでした。これについてはまた今度。

(つづく)

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