「留学」と一口に言っても本当に様々
「留学」と一口に言っても、今は本当に様々なスタイルがあります。国際化の掛け声のもと、いくつかの大学では在学中に全員を留学させることを目標に掲げたりしています。が、中身をよく聞くと2週間程度のホームステイに毛の生えたような滞在までも「留学」と呼んでいたりするので、言葉の定義そのものが変わってきているなと感じます。
退路が断たれた留学とは
私は、留学は大きく2つに分けられると思います。ひとつは帰国後の椅子が確保されている留学です。企業派遣とか、大学の単位互換留学など。もうひとつは退路が断たれた留学です。会社を辞めていく留学とか、辞めてはいないけれども、今あるポジションには戻れないことがわかっている留学とか、学部を卒業したあと大学院に行くケースとか。この退路が断たれた留学の場合、この先どうしようという不安が絶対について回ります。もちろん、企業派遣や単位互換留学だって、さらにその先の未来の不安はあるわけですが、短期的にはないという体で話を進めますね。
留学中の漠然とした不安
実は私は、留学中にも細々とブログを書いていたのですが、内容的には、特定少数の友人知人に向けて自分の個人的なつぶやきや愚痴を書き散らしたものでした。全体的にトーンは暗く、何かを伝えたいというより、心配事を吐き出すはけ口としてのブログでした。自分で書いたことすらすっかり忘れていたのですが、先日、こんなエントリーを見つけました。
修士号がもうそこに見えてくると、さて、これを取ってそのあと一体どうなるんだろう、という不安が頭をもたげます。
この不安は周期的に訪れ、一人(あるいは2人ぐらいで?)悶々と悩んだ挙句、「やれるところまでやって、ダメだったらそれまで」という結論に落ち着きます。<中略>
私の場合は卒業後は是が非でも働いて、家族5人食べていかなければいけません。生活がかかっているから問題は切実。
でも考えても結論は出ない。就職ひとつとっても、それは縁と運とタイミング。もしかしたら「あの人は留学までして、結局あんなことしかできない」という結果になるかもしれないのです。
「あの人は留学までして、結局あんなことしかできない」だって。なんでこれほどまでに他人の視線を気にするかなあ、と今の私なら思えるのですが、人間って自分自身のことをわかっているようで実はまったく理解していないものなんですね。
これを読むと、自分が選んだ留学、後悔はしていないけれども、心のどこかで毎日見えない不安と戦っていたんだなと思います。莫大な費用をかけたのに、授業の理解度が低く何かを得ている気がしない。お金はどんどん減っていく。卒業後就職できるんだろうか。就職するとしたら日本かアメリカか。子供たちをアメリカでずっと育てる覚悟はあるのか。学校はどうするのか。エトセトラ。。。。
このブログでたびたび書いていますが、タイムマシンがあったら、当時の自分を励ましてあげたいです。こんな風に↓
「マインドフルネス」を知っていたら
「考えても結論は出ない」って自分で言っているのだから、考えること自体やめればいいのに、それができなかった。この頃に「マインドフルネス」という考え方を知っていたら、きっと飛びついていたでしょう。
マインドフルネスはあまりにも有名になりすぎて、本来の仏教的な意味から逸脱した対症療法的な捉え方が批判されることも多いようですが、構成要素は大きく2つあるそうです。ひとつは「自分の今の状態を判断せずに受け入れ、ありのままでいることができるようにする」こと。もうひとつが「『今この瞬間』に意識を向ける」ということです。
過去に悶々と悩んでいたことは、実は悩みでもなんでもなく、結局は時が解決し、なるようになった。このことをよーく胸に刻み込んで、ふとした時には思い返し、毎日を生きていきたいと思います。
(つづく)
参考
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