【2】伏線其ノ弐:海外日本研究司書の人たち

その頃、私は日外アソシエーツという会社で日本語の雑誌・論文記事のデータベースを大学図書館(や一部の公共図書館)に売るという仕事をしていました。

お客様には海外で日本研究をやっている大学の図書館も含まれていました。

 

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日本語のデータベースを海外の大学に売ると言う仕事をしていました

 

当時の私は、それほど英語が話せたわけではないのですが、趣味程度にNOVAの英会話を習っていたので、それもあってかアメリカに出張する機会もいただきました。当時、この会社で海外出張するというのはかなり珍しいことで、出張が決まると「右の者 アメリカ出張を命ず」なんていう辞令が掲示板に張り出されるほどでした。人生で最初で最後の一大イベントだと盛り上がりつつも、悲しい気持ちにもなっていた覚えがあります。その後、私はアメリカには数えきれないほど行くことになるのですから、わからないものです。

さて、実は私は夫が闘病中だった2002年の夏、2度目のアメリカ出張の機会を得ました。ハーバード大学を会場に、日本研究司書の人たちの研修プログラムがあり、国会図書館や、国際交流基金、日外などから研究情報源に関するアップデイトやデータベースの使い方セミナーを行うというのが目的でした。その頃の夫の病状は落ち着いていて、主治医の先生も「せっかくだから行ってきてはどうですか」とおっしゃってくださった。それもあって、後ろ髪をひかれながらもボストンに出かけていきました。

その出張から帰って、いくらもたたないうちに夫の容体が悪くなり、残念ながら亡くなってしまったわけです。研修のすぐ後の話だったので、海の向こうからも沢山のお悔やみの言葉をいただきました。

この海外日本研究司書の方々との出会いというのは、のちにアメリカに行こうと思う非常に大きなきっかけになりました。当時の自分からみたら、彼らは雲の上の上の人、英語が話せて、留学をして、図書館・情報学で修士号を取り、なおかつアメリカのそうそうたる大学図書館にきちんとポジションを得て、プロフェッショナルとして研究支援を行っている・・・まったく別世界の人々でした。が、通帳残高を見て「私費留学できる!」と思ったとき、具体的に思い描いたのは彼らを目指すということだったのですね。逆にいうと、それしか留学というものの道筋を知らなかった。モノを知らない私は確かMBAすら何をするところなのかわかっていなかったと思います。

これが第二の伏線です。そして第三の伏線、これは当時私が心のよりどころとしていたワーキングマザーのネットワークでした。その続きはまた次回。

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