【9】アメリカの生活はすぐに軌道に乗った

 

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2003年8月2日の真夜中、無事に家族5人でピッツバーグの家にたどり着きました。

着いたその日から家財道具が一式揃っていたのは、1から何もかも立ち上げるのとはやっぱり全然違いました。家の中はほぼ日本にいるのと同じ状態、炊飯器もお米もお茶碗も箸もそろっています。家財道具を譲ってくださったご家族には3人のお子さんがいましたが、あらかじめ決めた引き渡しリストにはない子供服のお下がりも置いていって下さっていました。      

よくガスや電気などのライフラインがなく、しかも手続きにめちゃくちゃ時間がかかったなんていうエピソードを聞きますよね。そういうストレスは皆無でした。

鍵を預かっていたマダムは、事前に家のお掃除もしてくださり、到着したその日はお鍋にカレーが用意されていました。ご飯も炊いてありました。

本当に至れり尽くせりのありがたーいスタートだったわけです。

二軒長屋のお家の隣も日本人のご家族で、御主人は研究留学中の国立大のお医者様、やはりお子さんが4人いました。奥さんはおかずのお裾分けを届けてくださったり、買い物に誘ってくださったり、 とても面倒見の良い方でした。マダムやこのご家族を通して、近所の日本人のコミュニティにもほどなく仲間入りをさせてもらいました(が、こののち、大学院の本格授業が始まると、この日本人コミュニティとの距離の取り方に悩まされることもありました)。

マダムは、子供達のシッターも引き受けてくれました。私の授業と図書館の仕事が始まったら、長男はミドルスクールからスクールバスで自力で帰ってきますが、下の3人は幼稚園の末娘も含めて同じ学校に歩いて通うので、マダムがお迎えに行ってくれます。宿題を一緒に見てくれて、お米を研いで帰る、月曜から金曜まで毎日3時間、時給7ドルでお願いすることで話がついていました。

マダムには高校生の息子さんが2人いました。アメリカ育ちなのに訛りのまったくないキレイな日本語を話すので驚きました。家の中では徹底して日本語を話しているとのことでした。お宅に行くと、本棚には溢れんばかりの日本の漫画があり、子供達は大喜び。日本語を維持するための工夫のひとつだと言っていました。

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そのマダムに、子供達のことに関して最初にアドバイスされたことがあります。

それは、4人全員が全員このアメリカの生活環境に適応できると思わない方がいい、いや思わなくていい、という忠告です。子供が4人もいればすぐに慣れる子もいるし、そうでない子だっている。せいぜい、4人のうち2人ぐらいが、ああ、アメリカの生活は楽しかったなと思ったとしたら、それで恩の字とすること。英語がすぐに話せるようになるなんて期待しないこと。

この、長年駐在員家族を見てきたマダムならではのアドバイスは、後々とても気を楽にしてくれました。実際、その通りで、下の2人は現地の生活に割合すんなりと溶け込みましたが、上の2人はそうではありませんでした。長男はほどなく反抗期を迎え、プチ引きこもりになりました(アメリカに行って良かったと感謝してくれたのは大人になってからです)。次男などは今でも、日本に帰ってきた事が嬉しすぎて現地での生活の記憶が殆んどない、と言います。

いずれにしろ、私は自分の目標に向かって淡々と進むだけ、あとはみんな私の背中を見て育ってくれ〜という気持ちでした。

到着してから大学院が始まるまでの3週間はなんだか長い夏休みの旅行のようでした。運転練習をしたり、子供の現地校と日本語補習校の手続きをしたり、スーパーや日本食材店をはしごしたり、ショッピングモールで入学用品を買え揃えたりと、わくわく過ごしました。もちろん私1人でこんなことがいきなり全てできるはずはなく、その度ごとに誰かが手を差し伸べて手伝ってくれたんですね。ありがたいことです。

このあと私と子供達の学校が始まり、旅行気分は吹っ飛んで青息吐息の学生生活に突入するのですが、この時はまだ現実の厳しさを知らず、物珍しいアメリカの暮らしに浮かれていました。

(つづく)

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